CESA:一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会

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ゲーム産業の系譜

中藤 保則

中藤保則【第1回】

1970年代

業界ライターからみたアミューズメント産業の40年

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中藤保則(Yasunori Nakafuji)

元「月刊アミューズメント産業」編集長

1943年北海道生まれ。東京芸術大学美術学部芸術学科卒。余暇と健康問題に興味をもち、研究・執筆活動を続ける。月刊「アミューズメント産業」編集長、TKK健康科学研究所所長、有限会社プロジェクトA専務取締役などを歴任し、余暇健康学研究所を主宰。日本体育大学、フェリス女学院大学、実践女子短期大学等で講師を務め、信州短期大学では教授、学科長、副学長を務める。

著作・執筆・編集

  • 「遊園地の文化史」
  • 「百年の時空を超えたゲーム機~スロットマシン~その誕生から黄金期まで」
  • 「余暇学を学ぶ人のために」
  • 「テクモ40周年遊びの軌跡~そして未来へ~」

第1回アミューズメント業界はかつて、社会的に認知されていない業界だった。

日本のアミューズメント業界がまだ黎明期であった1972年(昭和47年)、私は<日本出版企画制作株式会社>という小さな出版社に入社しました。その後、<株式会社全日本遊園協会出版局>に変わりましたが、現在「月刊アミューズメント産業」という業界誌を出版している会社<株式会社アミューズメント産業出版>の前身です。その後、同社で「月刊アミューズメント産業」誌の編集長を務め、また、ライターとして独立してからも、一貫してアミューズメント業界に関わってきました。
現在も続いている「月刊レジャー産業」という雑誌にもずっと記事を書かせていただきました。この業界の様々な方にインタビューをさせていただいたり、お話をお伺いすることができました。タイトーの中西昭雄さん、ナムコの中村雅哉さん、シグマの真鍋勝紀さん、友栄の内田博さん、サミーの里見治さん、セガの中山隼雄さん...そうそうたる方々が、この業界の発展のために尽くしてきました。そうした先達の努力があってこの業界が健全に発展してきたのだと、心からそう思います。

私がこの業界との関わりをもった1972年(昭和47年)の頃からお話しいたしましょう。
当時、アミューズメント業界は、セガ・エンタープライゼス(現、株式会社セガ)、太東貿易(現、株式会社タイトー)、中村製作所(現、株式会社ナムコ)の三社が市場で大きな存在でした。規模でいうとセガ、タイトー、ナムコという順番だったと記憶しています。当時はアミューズメント業界といっても、なかなか社会的に認知されておらず、銀行の融資を受けるのもたいへんだったようです。私自身も、「月刊アミューズメント産業」誌の取材で、ある区役所を訪れた際、自著を渡して業界の説明をしようとしたところ、受け取りさえ拒絶されまるで相手にされませんでした。この業界の知名度が上がり認知されるようになったのは、ビデオゲームが登場し、あの爆発的にヒットした「スペースインベーダー」のブーム以降のことです。

その前に、少し業界の歴史を振り返りましょう。アミューズメント産業はこれまで二度ほど大きな飛躍の時期がありました。

まずひとつめは1956年(昭和31年)頃です。この頃、映画館の新築ブームが起こりました。1945年(昭和20年)の終戦時から比較すると映画館数は4倍となり、年間の延べ観客動員数は10億人にのぼりました。まさに大衆娯楽の王様です。新たに映画館が建てられ、周りにたくさんの店舗が集まってアーケードモールがつくられ、たいそう賑わいました。当時、東京の日比谷・浅草、大阪の梅田は三大アーケード街と呼ばれていました。
そうしたアーケード街に、ゲーム機が置かれるようになりました。当時、最も人気があった映画は西部劇です。ジョン・ウェインやゲーリー・クーパーなどは大人気でした。そこで一番流行ったのはガンゲームです。電気式の鉄砲で流れてくる的にタイミング良く引き金をひくと、的がパタッと倒れるといったものでした。国産機もありましたし、駐留軍からの払い下げもありました。
このようにしてアーケードに何台かのゲーム機を置いたのが、現在の「ゲームセンター」のはじまりです。ちなみに、このように元々アーケードに置かれたことから、娯楽施設に設置された業務用ゲームのことを「アーケードゲーム」と呼ぶようになったわけです。