CESA:一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会

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ゲーム産業の系譜

中藤 保則

中藤保則【第2回】

1970年代

業界ライターからみたアミューズメント産業の40年

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中藤保則(Yasunori Nakafuji)

元「月刊アミューズメント産業」編集長

1943年北海道生まれ。東京芸術大学美術学部芸術学科卒。余暇と健康問題に興味をもち、研究・執筆活動を続ける。月刊「アミューズメント産業」編集長、TKK健康科学研究所所長、有限会社プロジェクトA専務取締役などを歴任し、余暇健康学研究所を主宰。日本体育大学、フェリス女学院大学、実践女子短期大学等で講師を務め、信州短期大学では教授、学科長、副学長を務める。

著作・執筆・編集

  • 「遊園地の文化史」
  • 「百年の時空を超えたゲーム機~スロットマシン~その誕生から黄金期まで」
  • 「余暇学を学ぶ人のために」
  • 「テクモ40周年遊びの軌跡~そして未来へ~」

第2回「ゲームファンタジアミラノ」がゲームセンターの概念を変えた。

アミューズメント産業の大きな飛躍の時期――1956年(昭和31年)の映画館の新築ブームと、もうひとつはボウリングブームです。

1972年(昭和47年)にピークを迎えた当時のボウリングブームはすごかったです。テレビではボウリング番組がゴールデンタイムに放映され、男女のプロボウラーが人気者になりました。ボウリング場でも、週末ですと3~4時間待ちなどは当たり前でした。
そこで、ボウリング場には必ずゲームコーナーが併設されるようになりました。つまり、長い待ち時間を過ごすにはゲームが最適だったのです。自分の順番を呼ばれるまで、ゲームコーナーでゲームをすることは時間を潰すのに一般的な方法となりました。そうして、ゲームコーナーが身近な存在になっていきました。

もっとも、このボウリングブームも長くは続かず、ブームが去った後にはボウリング場の再利用が問題となりました。一番多く再利用されたのはパチンコ店でしたが、ゲームセンターになったところも多くありました。そしてちょうどその頃から、ゲームセンターの大型化が始まりました。メダルを使用してギャンブルゲームで対価なく遊ぶ「メダルゲーム」の登場です。

メダルゲームの1号店は、1971年(昭和46年)に新宿歌舞伎町に誕生したシグマ(現、アドアーズ株式会社)の「ゲームファンタジアミラノ」でした。
このゲームセンターがエポックメーキングなのは、メダルゲームの1号店というだけではありません。従来、映画街のアーケードやボウリング場の片隅の空きスペースで営業していたゲームセンターを、ミラノ座の1階という絶好の立地に単体で出店したことです。しかも、店内は当時では珍しくカーペットが敷き詰められ、インテリアやエクステリアにもかなり凝ったものにしていました。入店されたお客様が「靴を脱ぐのですか?」と聞いたという逸話も残っています。それまでゲームセンターは、あくまでレジャー施設の軒先を借りて営業していただけでしたが、突然、表舞台に飛び出してきたような印象でした。

「ゲームファンタジアミラノ」は同年の12月15日にオープンしたのですが、最初は全くお客様が来ませんでした。メダルゲームが一般のお客様にはまだまだ認知されていなかったことが大きかったと思います。
お客様が爆発的に入店されるようになったのは大晦日からです。綺麗な空間でしたので、晴れ着の女性客などが立ち寄るようになったのです。 こうして、それまでゲームセンターは3K(「暗い」「汚い」「怖い」)と言われていたのですが、この「ゲームファンタジアミラノ」ができて以来、「明るく」「清潔」で「安心」というイメージを消費者に植え付けることができたのが何よりの大きな功績でした。こうして1年後、自立型のメダルゲームセンターの2号店が誕生しました。場所は大阪の梅田でした。

シグマの真鍋勝紀社長(当時)の理論でいくと、「都市の中ではレジャーニーズが大量に存在しているが、それをフォローアップしようとするとスペースが足りない。あるいはフロアコストが高い。したがって機械やエレクトロニクスを大量に使用することが必要である」とのことです。「ギャンブルマシンというのは野獣である。しかし、その野獣を檻に入れて安全に楽しむことが大切だ」。つまり「その時、もっとも魅力的な機械、エレクトロニクスを使う必要がある」というものです。私は今の時代でもその理論は正しいと思っています。