CESA:一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会

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ゲーム産業の系譜

スコット 津村

スコット津村【第2回】

1970-1980年代

ビデオゲーム業界の軌跡に見え隠れする自分の半生

写真

スコット津村(Scott Tsumura)

Tozai, Inc.
エグゼクティブ・プロデューサー

1942年、愛知県名古屋市生まれ。米国ワシントン州在住。メダルゲーム機の製作販売などを経てIPM(後のアイレム)に入社、『ムーンパトロール』『スパルタンX』『ロードランナー』『スペランカー』などを手がける。1988年に渡米後、キョーダイソフトウェア、ブレットプルーフソフトウェア、Tozai,Inc.、ニンテンドーソフトウェアテクノロジーなどを設立し社長を歴任。現在はTozai,Inc.でエグゼクティブ・プロデューサーを務める業界歴40年の現役ゲームクリエイター。

第2回1年の予定だったアメリカ行き

PCエンジンの『R-TYPE』は私の日本での最後の仕事で、『R-TYPE I』発売後の1988年5月にアメリカへ行くことになりました。

ブローダーバンド(Broderbund Software, Inc.)社長のダグ・カールストン(Doug Carlston)氏が来日したとき、「日本のソフトをアメリカの自社の販売網で売りたいので、ジョイントベンチャーをやらないか」と誘われました。私はカールストン氏と一緒にPCのゲームメーカーを回り、13社から賛同を得ました。こうして、アメリカに合弁会社を設立し、日本のゲームをIBM-PCやApple II、Macintosh向けにローカライズして販売する仕事を始めることになったのです。

日本からは、立ち上げの1年だけということで、私が行くことになりました。そしてブローダーバンドのあるサンフランシスコ近郊に「キョーダイソフトウェア(Kyodai Software Marketing, Inc.)」という会社を設立して、代表に就任しました。「キョーダイ」というのは日本語の「兄弟」で、ブローダーバンドが「ブラザー」、つまり兄弟という意味だったことに関係しています。

1年後、全体のシステムが確立して私の役目はほぼ終わりました。しかし、そのころ任天堂の『NES(Nintendo Entertainment System/北米版ファミコン)』やセガの『GENESIS(北米版メガドライブ)』といった家庭用ゲーム機がアメリカで急速に普及しており、PCゲームの人気が衰えてきていました。ジョイントベンチャーに参加していたPCゲームメーカーに、家庭用ゲーム機向けソフトへの転換を提案しましたが、その中でBPSのヘンク・ロジャース(Henk Rogers)氏が賛同してくれました。こうして、ニンテンドーオブアメリカ(Nintendo of America Inc.)があったシアトルにブレットプルーフソフトウェア(Bullet-Proof Software, Inc.)という会社を設立し、『テトリス』を主体として様々なNESやGAME BOYのゲームを出しました。そしてこのスタートがアメリカに永住するきっかけになりました。

シーラ・バウテン(Sheila Boughten/現<Tozai,Inc.>社長)シーラ・バウテン氏
(Sheila Boughten)
当時のもうひとつの仕事は、『テトリス』の作者であるアレクセイ・パジトノフ(Alexey Pajitnov)氏のアメリカ移住の手伝いです。彼をブレットプルーフソフトウェアの社員として雇い、マーケティング責任者のシーラ・バウテン(Sheila Boughten/現<Tozai,Inc.>社長)が身の回りの世話をしました。その後パジトノフ氏の奥さんや子供も来て、永住権取得手続きからアパート探し、スーパーでの買い物、歯医者の世話などなど、彼の生活の手助けをしました。今思えばそのころの楽しかった一コマです。

『テトリス』は1984年、パジトノフ氏がソビエト連邦の科学技術庁コンピューターサイエンスに在籍していた当時に開発されました。そのため『テトリス』の版権はソ連の海外貿易協会(ELORG)が管理していたのです。その後、ELORGはアンドロメダソフト(Andromeda Software Ltd.)に『テトリス』をライセンスし、数社のサブライセンスを経て日本ではセガがアーケード版を出し、BPSがPCゲームとファミコン版のライセンスを受けて発売していました。

1989年に任天堂がゲームボーイ版『テトリス』を出そうとしたとき、任天堂はBPSに、携帯ゲーム機のライセンスの状況を問い合わせました。BPS社長のロジャース氏がソ連のELORGへ行って調査すると、最初に『テトリス』のライセンスを受けたアンドロメダソフトはPCゲームのライセンスのみで、家庭用ゲーム機などのライセンスは持っていなかったことが明らかになりました。そこで、ただちにニンテンドーオブアメリカ社長の荒川實さんと当時法務担当副社長だったハワード・リンカーン(Howard Lincoln)氏がソ連に飛び、ロジャース氏と共にELORGと交渉して『テトリス』の家庭用ゲーム機全般の独占ライセンスを取ったのです。セガはメガドライブ版の『テトリス』を出す予定でしたが、任天堂が独占権の契約を締結したので発売できなくなりました。

1993年ごろ、ブレットプルーフソフトウェアはスペクトラムホロバイト(Spectrum HoloByte, Inc./後のマイクロプローズ(MicroProse Software, Inc.))に売却され、私もスペクトラムホロバイトに移籍しました。その会社はサンフランシスコにあったので、毎週サンフランシスコへ飛び週末はシアトルに帰ってくる生活を2年ほど続けました。

その後、1996年にシーラ・バウテンとともに現在の会社である<Tozai,Inc.>をシアトルに設立して、コンサルティングやエージェントの仕事を始めました。そこではアメリカやヨーロッパのゲームを日本の会社にライセンスしたり、逆に日本のゲームを欧米へライセンスすることや、いろいろなプロジェクトのサポートをしていました。

そのころニンテンドーオブアメリカ社長の荒川さんから、任天堂がアメリカに開発会社を作るから一緒にやらないかと誘いがあり、Tozaiをシーラに委譲してニンテンドーソフトウェアテクノロジー(Nintendo Software Technology Corporation)という開発会社を設立し、1998年から4年間社長を務めました。そこで思い出として頭に残っているのが任天堂のゲーム作りの凄さを実感したことです。ゲームが完璧に仕上がったと思って私がOKを出しても、開発上のボスである宮本茂さん(現<任天堂株式会社>代表取締役専務)から見ると、完成度はまだ60%程度でした。ゲーム作りの詰めの厳しさは、自分の今までの経験では考えられないほどでした。

2002年に荒川さんが任天堂を退社されると、荒川さんの縁で入った私も自分の役目が終わったと思い辞職しました。その後はTozaiに戻り、コンサルティングばかりでなくエグゼクティブプロデューサーとしてソフト開発を始め、『ロードランナー』と『スペランカー』の知的財産権を買い取りました。その後はアイレムに『スペランカー』をライセンスしていましたが、のちにアイレムがビデオゲーム事業を縮小したので、私たちがライセンスしていた『みんなでスペランカー』を引き取って、現在に至るわけです。