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研究者インタビュー

ゲーム研究者インタビュー

サイトウ・アキヒロ先生インタビュー【第1回】

テレビゲームへの正しい理解を~ゲーム研究者インタビュー

サイトウ・アキヒロ先生インタビュー

写真

サイトウ・アキヒロ(さいとう あきひろ)

亜細亜大学 都市創造学部 教授

1961年、神奈川県生まれ。多摩美術大学在学中よりCMディレクターやアニメ・プロデューサーとして活動しながら、ファミリーコンピュータ(ファミコン)の初期から任天堂を中心にゲーム・クリエイターとしても活動を開始。以後、近年まで多数のゲーム制作を指揮する。現在は、ゲームにおける「人を夢中にさせるノウハウ」の他分野での活用を提唱し、これを「ゲームニクス」と命名して、家電や教育などの分野で実践している。著書に「ゲームニクスとは何か─日本発、世界基準のものづくり法則」(幻冬舎)、「ビジネスを変えるゲームニクス」(日経BP社)などがある。

第1回アニメ・CM・ゲーム...多彩なクリエイター経験を経て大学教授へ

2019年3月25日掲載

――サイトウ先生のゲームニクス理論は、当協会の「ゲームのちょっといいおはなし」でも紹介していますが、このゲームニクス理論は、ご自身のゲーム・クリエイターの経験に基づいてまとめられたと聞いています。ただ、先生の経歴を拝見すると、ゲーム・クリエイター以外にも、学生時代からCMディレクターやアニメ・プロデューサーなどのご経験もおありですよね。まずは、そのころのお話をお聞かせいただけますか?

サイトウ:私のクリエイターとしてのスタートは、アニメーションでした。絵を描くことが得意でしたので、10代後半の頃からテレビアニメの動画の仕事をいただいていたんです。ギャラは安かったですけどね(笑)。1枚の単価が100円でしたから。口パクの口だけ描くのでも100円で、そういうのは楽なんですけど、1枚に人間を100人も200人も描かなきゃいけない場合でも100円なんです。ですから、苦労の割にあまり稼げた感じはしませんでした。

ただ、アニメの現場では大変よくしていただきました。最初は絵を描くことから始まったんですけど、演出とかにも興味を持っていたので、仕事場で意見を出したりして「だったらちょっとコンテを書いてみたら」などと促されて提出してみたり。そのときにいろいろと指導してもらった演出家のりんたろうさんや、その他の方々にもとても可愛がってもらいました。りんさんには、後にアニメのプロデュースをすることになったときには演出を引き受けてもらったりしていますし、ゲームクリエイターになった後も、ゲームのデモ映像なんかも手伝ってもらっています。当時はすでに大御所になっていたのにもかかわらず「サイトウくんの仕事なんだからギャラなんかいらないよ」って、ほんとに受け取らないんですよ。

ひこねのりおさんという、東映動画の初期のころから活躍しているベテランのアニメーターがいまして、その方にもアニメーションのことをいろいろ教えていただいたりして、本当にお世話になりました。明治製菓「カールおじさん」のCMキャラクターを作った方なんですが、そのひこねさんから、アニメよりCMの仕事のほうが儲かると聞きまして(笑)、「CMランド」というコマーシャル制作会社を紹介してもらったり。

それで、映像の世界で仕事をするようになりまして、1983(昭和58)年にCANビールのCMスタッフに加わったんです。ビールのコマーシャルとしてアニメーション表現をするのは珍しい時代でした。

――松田聖子さんが「SWEET MEMORIES」を歌ってるCMですよね。

サイトウ:ああ、はい。そうです。おかげさまで非常に評判になりまして、そのキャラクターで映画にもなったりしたんです。もちろんその映画にもスタッフとして参加していました。そんなかんじで、このまま映像の世界で仕事をしていくんだろうなあ...と漠然と思っていたんですが、そんなとき、知り合いを介して、株式会社HAL研究所(ハル研)の岩田聡さん(故人、任天堂株式会社元代表取締役社長)と出会ったんです。

ちょうど任天堂からファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売されて盛り上がってた時期(1983(昭和58)年)でしたね。それで、岩田さんとのお付き合いが始まったんですが、彼からゲームづくりに誘われたんですね。「私はプログラマーですから、絵とか企画はできません。サイトウさんは絵が描けるんですよね?ゲームの企画とか手伝ってくれませんか?」と。それでまあ、面白そうかなあと思ってゲームの仕事をやり始めることになりました。で、つくってみたらわりと好評で、任天堂に採用されたりしたんです。

――それで今度はファミコンソフトをどんどんつくっていくことになるんですね?

サイトウ:いや、CMや映像の仕事もちゃんとやってましたよ。「ラフォーレ原宿」とか「東京ディズニーランド」とか。テレビのオープニングタイトルでは「お笑いマンガ道場」とか「なんたって好奇心」とか。「ひらけポンキッキ」のアニメコーナーなんかもやりましたね。チェッカーズの歌にあわせて作った記憶があります。

当時、岩田さんはファミコンよりも、MSXのプロジェクトのほうに力を入れていました。「ファミコンのブームなんて一時的なもので、これからはMSXの時代だ!」ってずっと言ってましたから。ゴルフゲームなんかも作りましたが、特に「HALNOTE」というMSX向け統合ソフトの開発に熱心に取り組んでいて、搭載されてるフォントも私が全部つくったんですよ。

ただ、ファミコンがものすごく売れてきましてね。ハル研もファミコンの仕事がどんどん増えてきたんですよ。それと、1987(昭和62)年にNECホームエレクトロニクスから「PCエンジン」が発売されてから、そちらの仕事もするようになったんです。「ダウンロード」とか。それで、私も非常に忙しくなってくるんです。ゲームの仕事がそんなにたくさんあるんだったら...ということで、だんだんと映像よりもゲームの仕事のほうにシフトしていくんです。

PCエンジンが出て以来、ゲームはどんどんグラフィカルになっていきました。ファミコンでもグラフィックの量がどんどん増えていて、加えて、任天堂がソニーと共同でCD-ROMドライブ搭載機を開発するプロジェクトが始まると聞きまして。

――あっ、例の話(1,2)ですね。

サイトウ:そうです。まあ、その話自体は幻に終わるわけですが、任天堂の仕事を中心としていたハル研としては、CD-ROMともなればグラフィックの仕事量が増えてくるのも間違いないだろうと。ところが、ハル研はプログラミング中心の会社ですから、とてもそんな大量のグラフィックの仕事は賄いきれない。そこで岩田さんから、グラフィックができるクリエイターを組織して会社をたちあげて、ハル研と組んでくれないかと頼まれまして。「メタルスレイダーグローリー」のグラフィックも私が描いてるんですが、岩田さんとしては、サイトウと組めばグラフィックの強化が図れると判断したんだと思います。

それで、1991(平成3)年5月に「株式会社ダイス(現「株式会社ダイスクリエイティブ」)」という会社を設立したんです。サイトウの「サイ」と、サイコロの「サイ(賽)」をかけて、「ダイス」ですね(笑)。

ただまあ、その後1年くらいでハル研のほうが経営危機に陥ってしまったんです...。仕方がないから、PCエンジンの仕事をしたりしてたんですが、岩田さんがハル研の社長に就任して再建されたので、それから、ハル研を通して任天堂のゲームを中心に仕事をしてきました。

――岩田さんは、その後、2000(平成12)年に、任天堂の山内溥社長(当時)に経営手腕を買われて任天堂に入社、取締役経営企画室長となり、さらに2002(平成14)年には、山内さんの後継者として任天堂の代表取締役社長に就任します。

サイトウ:はい。そんななか、立命館大学から先生をやらないかと誘われたんです。近々、立命館大学で、映画・CG・ゲームなどを学問として扱う「映像学部」という新しい学部をつくるという計画があって、そのなかのゲーム担当の人材として私がスカウトされた形です。「たびたび任天堂の仕事で京都に来るのなら、立命館にも来ませんか」って言われまして。

当時、新学部立ち上げにあたって中心になって動いていたのは、細井浩一先生や中村彰憲先生でしたけど、その先生方から誘われたんです。そうして、2006(平成18)年に、まずは立命館大学の情報理工学部の教授になって、いろいろ新学部設立の準備に参加して、そして1年後の2007(平成19)年に、新設の映像学部の教授に就任したというわけです。

任天堂の上村さんのようなハードウェア開発、あるいは「パックマン」をつくった岩谷徹さんみたいなアーケードゲーム開発の大御所が大学教授になった例はありましたが、ソフトウェアプロパーのゲーム・クリエイターだと、私が初めてだと思うんです。ただ、クリエイターとして呼ばれたとはいっても、大学教授になる以上は、なにか学術的な理論を持っていたほうがよいだろうと思いまして、いままでのゲーム作りの経験をひとつの理論として体系的にまとめようと考えました。それが、ゲームニクスです。

それで、それから10年間、東京から京都に通う羽目になったんですが(笑)、現在は東京に戻って、亜細亜大学の都市創造学部で教えています。担当しているのは、ゲームニクス理論はもちろん、他にも、インターフェイスの観点からみたゲームの歴史も教えています。あと、「サブカルチャー論」という講座では、ジャズを論じたりもしています。

――ジャズですか? ゲームとはまた異なりますね。

サイトウ:はい。ゲームとは一切関係ないですけど(笑)。実は私、ジャズも結構マニアなんですよ。子供の頃に住んでいたところが横須賀の米軍基地の近くにあって、そこの黒人の兵隊さんによく遊んでもらってたんです。そうしたら、彼らがベトナム戦争に行かなきゃいけないというので、米国から持ち込んだジャズのレコードを私にごっそりくれたんですよ。それで、若いときからそのジャズのレコードをよく聴いてたんです。

それに、当時は輸入レコードが高く売れましたので、お金がないときにはいい小遣い稼ぎにもなりましたね。そうやって中古レコード店に出入りするようになると、ジャズ関係の人脈も増えていって、ジャズ雑誌の編集者からレコードを貸してくれと頼まれたり、自然とジャズに詳しくなって、ライナーノーツを書いたりもしてます。

それと、大学ではゼミを受け持っています。私のゼミに来る学生というのは、アニメやゲーム、映像といった業界の志望者が多いんですが、そういうゼミ生の就職の世話なんかもしていますね。たとえばアニメだと、スタジオジブリのライン・プロデューサーをしていた田中栄子さんの「STUDIO4℃」や、「君の名は。」を制作した「コミックス・ウェーブ・フィルム」といった会社のプロデューサーも知り合いなので、いい人材がいれば紹介しています。また、私は映像業界の人たちとの付き合いも多いので、そういうCM制作会社や広告代理店、映画業界に就職していく学生もいます。もちろん、ゲーム業界も多いです。

――いろいろ就職先を紹介できるんですね。

サイトウ:はい、そうですね。よい人材だったら確実に就職できます。とにかく自分で考えることができて、「作る」ことに前向きな若者であれば、できる限りのバックアップはしてあげたいと思っています。ただ、別に教えることなんて何もないんですよ。クリエイトする能力はその人そのものなので、私も含め他人から自分で学び取ることはできても、第三者が教えたりできるものではないんですよ。私の経験からいっても、とにかくクリエイトする現場に出ることが重要で、あとはその人の持っている才能とセンス次第だと思いますね。 そこで必要な才能とは、とにかく続けることのできる能力だと思っています。

映像業界もアニメもゲームも、とにかく現場は大変なんです。辛いと感じることも多いでしょう。でも「本当に作ることが好き」であれば続けることはできます。逆に「作ることに憧れていた」だけの人は去っていきます。私もいろんなクリエイトの現場を体験してきましたが、もう私なんかより本当にすごい才能だと思う人がたくさんいました。でも、いま周りを見渡してみると、誰もいないんです。みなさん辛い現場の中で、途中下車してしまうんですね。ちょっとした才能だけでは、時間や年齢とともに枯れてくるもんなんです。 残っているのは「とにかく作ることが好きだった」人たちのみ。

そういう意味では「ブラック企業」とかいう表現がよくわからないんですよ。残業しているということは、光熱費も場所代も会社が負担してくれているわけでしょう。こちらはとにかくクオリティーを上げたくて作業を続けているだけなんですね。それはもう「作るのが好きだから」。そういう人だけが残っていって、いいものを作り上げていくんです。ゲーム業界でも大御所と呼ばれるようなクリエイターは、みんなそういう人たちです。この年齢になって本当にそう思いますね。